菊月(きくづき)
与えられた源氏名は奇しくも本当の名前と少しだけ似ていた
でもここでは本当の名前なんかいらない
全てがまやかしの世界なら
自分もまやかしにしてしまえばいい
そうして忘れてしまいたかった
なにもかも全て
忘れなければ何かが壊れていく気がして
どうしようもないくらい怖かった
目が覚めると視界いっぱいに広がったのは見慣れた天井だった
なんで自分の部屋に寝ているのか思い出せない
「菊月・・・?」
「夢人?」
「目が覚めたみたいだね。いきなり倒れるから驚いたよ」
あぁそうだと菊月はぼんやりとした頭で記憶をたどる
夢人に一つだけの願いを叶えてもらうために外に出た
花はないが凛として美しい桜の幹に真っ白な月と雪
冷たさが痛みに変わった時気を失った
「新造の子も寝たままだし、誰も気がついてないと思う」
「そっか。ごめんな?いきなり倒れたりして」
「大丈夫、それより何か欲しいものとかあるなら・・・」
菊月は無言で首を横に振った
帰らずにここにいてくれただけでも嬉しくて、心配されたことがなんだかくすぐったい
忍足や乾、越前から思われるのとは確実に違う暖かさが胸に広がる
初めてだ
ここで嬉しくて泣きそうになったのは
「菊月」
「ん?」
「君は・・・菊月だよね」
「なに言ってんだよ、当たり前じゃん」
夢人は言いづらそうに口ごもった
なぜそんなことを聞くのか菊月には全く見当が付かない
だが気絶する前におかしな事を口走ってしまったような気もしないとは言えなかった
「お・・・俺なんか言ってた」
「菊月じゃない・・・って」
「・・・・・」
思わず言葉を失う
確かに菊月は源氏名であって本名じゃない
今更なにを言っているんだろう
この名前になってもう何年も経つのに
未だに以前の名前を捨てきれない証拠だ
だけどあの名前は大好きな両親が菊月のために最初に与えてくれた大切な宝物
そう簡単に捨てるなんて事はできない
「じゃあ帰るね。ゆっくり休んで」
「待って!!!」
思わず着物の裾を掴んで引き留めてしまった
驚きで目を見開いた夢人に菊月は思わず目をそらす
なにをやっているんだろう
なにをしようとしたんだろう
ただ聞いて欲しいと思った
なにも聞かずに去っていこうとした優しい彼に
決して口には出さないけれど
伝わってくる彼の悲しさに同じものを感じたから
「聞いて欲しいんだ・・・・・なんで・・・俺が倒れたか」
静まりかえった室内に小さな菊月の声が響く
外は雪が降り始めていた
霜月の末、雪がちらついているが雲の間から月が見えるとても静かな夜
闇の中を歩く家族がいた
剣の腕が立つ父と、怒ると怖いがとても優しい母と、賑やかで楽しい兄と姉たち
その末の弟は英二という
豊かとは言えなかったが食べることに困りはしない平凡な家
優しい家族に囲まれて毎日が楽しかった
それはちょうど家族で食事に行った帰りに起こった悪夢
「こんばんは。菊丸さん・・・ですね?」
突然闇の中から声がした
誰かがいるのだろうけれど闇が深すぎて英二には見つけることが出来ない
父は持っていた提灯を母に渡し兄たちと共に刀に手をかける
「・・・・・誰だ」
「闇守です」
その名前を聞いた途端父から表情が消えた
兄たちも知っているらしくお互いに顔を見合わせている
姉たちが母と英二を守るように後ろに隠したとき、英二はこの状況がかなり危険なのだと理解した
「恨みはありません、ですが依頼のため・・・・・死んで頂けませんか」
「私にも家族がいる。そう簡単に死ぬわけにはいかないな」
「・・・・僕も死んで頂かないと困るんです」
「そうか・・・・」
ゆっくりと雲が動き隠れていた月が闇にとけ込む声の主を照らす
母と姉を押し分けて目に映ったのはさほど自分と年の変わらない子供だった
その子供が父と兄たちを相手に刀を振るう
英二もよく稽古を付けて貰うがあんな風に対等に組み合えた試しがない
そのため相手がどれほど強いのか分かった
守らなければと幼心に思ったのだ
母と姉たちを
大好きな人たちを
だが目の前で兄が倒れ父が倒れもう一人の兄も積もった雪を赤く染めながら倒れていく
必死で懇願する姉も母と英二を守ろうとした姉も真っ赤に染まった
「大丈夫・・・母さんが守ってあげる・・・から・・・・・・ね」
母からの最後の言葉となった
血で真っ赤に染まった手を見ながら英二は呆然とする
あまりの出来事に涙が出ない
悲しくて泣きたいのに
泣けない
助けられなかった
守れなかった
声すら上げられなかった
力がないから
大好きな家族は皆自分を守るために死んでしまった
次は・・・・・
そう考えた時に血の気が引く
次は英二の番だ
(殺される)
そう思った英二は再び殺人者を必死で目に捕らえようと試みる
誰が敵なのか見なければ、知らなければ
そして聞かなければ
なぜこんな事をしたのか
自分の家族は何か恨みを買うようなことをしたのか
「な・・・・んで・・・・・」
「・・・・・・・・」
「なんで・・・・・みんなをっ!!!」
「ごめん・・・」
「っ!?」
返ってきたのは謝罪だった
謝って欲しいわけじゃない
どうして殺されなければならなかったのか知りたいだけだ
どうしてあんなに優しい家族を
「僕を殺して・・・・」
「!?」
「どうしてもこれは許されないことだ。だったらせめてもの償いに」
突然の頼みに言葉が出なかった
今目の前で人を殺したのに殺して欲しい?
今考えればそれは逃げているとしか思えない
でも幼い英二はぐちゃぐちゃしている頭で必死に考えて、首を縦に振った
敵討ちがしたいとか言ったら父さん達怒るかな・・・・・
「僕は不二・・・・不二周助」
「え・・・・・・・・・・・?」
「探すにはいるだろうから、君にあげる。僕も闇守に留まって君を捜すから・・・」
だから君の名前を
まるで懇願するように告げられ無意識に声が出ていた
俺は・・・・菊丸・・・・菊丸英二
大切な親にもらって、みんなが呼んだくれた大好きな名前
不二周助と名乗った闇守は何度か呟くと英二に背を向けた
「君をずっと待つから」
そこから記憶がない
あれからどのくらい経ったのかは分からないけれど気がついたら周りに人がいっぱい居た
だから人買いに山で拾われて売りに出されたんだろうなと簡単に想像が付く
それでもいい
帰る家はあるけれど戻っても辛いばかりだ
隣の人たちが次々に買われていく中で英二は膝を抱えて目を閉じていた
血まみれの子供なんて気味悪がって誰も買っていかないから最後まで英二は売れ残る
目を開けるたびにあの惨劇がよみがえって吐きそうになった
だから何度も何度も教えられた名前を思い出してあえて忘れないように・・・と
死にたいと思ったのは一度や二度じゃない
むしろ死んだ方が楽だったのかも知れない
でも父が、母が、兄や姉が、命をかけて守ってくれたからにはなんとしても生きなければ
生きて見つけなければ
目的を見つけてどんなに辛くても生きると誓った英二の前に天華の店主忍足が現れたのは
それからまもなくしてからのこと
名前がないという英二にくわしく訳を聞くでもなく新しい名前と居場所を与えてくれた
それが今の菊月だ
あれ以来血も雪も苦手になった
今日は雪と月が見えたからあの光景がよみがえって倒れたんだ
話し終えると2人を思い沈黙が包み込んだ
後悔はしていない
あの闇守が約束をいつまでも覚えているとは思えなかったし、もう死んでいる可能性だってある
だけど僅かな望みをかけて菊月は夢人に聞く
目の前で両親を惨殺した犯人を捜すために
生きると決めた
その目的を果たすため
「なぁ・・・不二周助ってやつ・・・・・・闇守でまだ・・・・・生きてる?」
その問いに答えることはなかった
天華を後にした夢人は鶴屋を目指してただひたすら歩く
気配を消して
先ほどの真実に確実に動揺しながら
「生きていたんだね・・・・・」
英二・・・ずっと探してた
冷たい雪は
まるであの日のようだった
その日二つの悲しみが生まれた
一つは犯してしまった罪と罪悪感に
一つは突然の孤独と嘆きに
数年の時を経て
悲しみがまた出会った
気がついてしまった者と
気がついていない者
果たしてどちらが幸せか
※流血有
苦手な方はご注意下さい