遊糸 −1−


昔々のその昔、とある森に妖が住んでいました。
それは森に足を踏み入れた人間を惑わせ喰らう人食いの妖。
恐ろしい妖が住むと噂が流れ旅人も森を迂回するようになると
飢えた人食いは里に下りて人を襲うようになりました
森に隣接する村の住人達は抗う術もなく、毎夜訪れる妖に怯えて暮らすほか有りませんでした

そんなある日、村に旅人が訪れます
旅人は全国を歩いて周りながら、妖のことを調べている学者だと言うのです
それを聞いた村の人達は大喜び。皆で森に住む凶悪な妖を退治してくれるように頼みました
快く退治を引き受けてくれた学者に村長は

「お供に誰か行かせましょう」

と言いましたが

「村人に危険が及んではいけないから」

と学者は一人で森の奥地へと入って行ってしまいました。



しかし、待てど暮らせど学者は一向に帰ってきません
村人達はあの学者に黙っていましたが
実は以前にも高名な僧侶や祓い屋が噂を聞きつけ妖退治に名乗りを上げてきました
しかし森の奥に入ったきり、誰一人戻ってきた者は居ないのです
あの学者も同じように妖に喰われてしまったのではないか
村人達が諦めかけた時、なんと学者が帰ってきたではありませんか!
生還を喜ぶ人々に学者は沈んだ声でこう言いました。

「妖は鎮めましたが完全に封じることはできませんでした。
私は森で妖を封じる結界を張り続けます。ですが決して森の奥へ入らないと約束してください。
もし誰かが森へ入り、結界が消えてしまったら目を覚ました妖が村に災いをもたらすでしょう」

その場にいた全員が森に入らないことを堅く誓うと、学者は笑顔を浮かべまた森の中へ入り二度と戻ってくることはありませんでした

それからというもの妖が人里に降りてくることはなくなり、人々は平和に暮らしました










俺が住む村の近くには『人喰いの森』というなんとも物騒な名前の森がある
そこには人を喰らう妖が住んでいて、森の奥に入った人間はその妖に食われてしまうらしい
親から子供へと語り継がれる言い伝えはこの村で本当に起こった出来事だというが・・・所詮は御伽話
子供たちが雄大な森の中へ迷い込んでしまわぬように、と大人がついた優しい嘘にすぎない
実際、度胸試しに森の奥地に足を踏み入れた奴は何事もなく帰ってきたし、村に住む人々も浅いところまでならと森に入り食料や薬草を採取している有様
恐ろしい名前の割にとても美しい森は、妖怪や山賊が住み着いている様子もないため、誰も信じていないのだろう




かく言う俺自身も全く信じていなかった
アイツに出会うあの日までは









ハッハッと短い息を吐きながら青年は走っていた
濃く鮮やかな緑色の葉をかき分けて、道なき道を持てる力の全てを使いひたすら前へ
時折後ろを振り返り、誰も来ていないことを確認してはまた走る

逃げなければ・・・・
逃げなければ・・・・

ただそれだけを強く思いながら、青年は疲れで座り込みそうになるのを必死に堪え、足を動かしていた
なにがなんでも捕まるわけにはいかないのだ
鳥や動物たちがいるはずなのに、森は不気味なほど静まりかえり、鳴き声一つしない。
聞こえるのはうるさいくらいに音を立てる己の心音と、生い茂った草を踏み分ける音だけ
普段ならば『人喰いの森』と呼ばれるこの場所に入りはしないのだが、今そんな細かなことにこだわっている暇はない
一刻も早くあの人から、あの家から、あの村から離れなければ
ひたすら森の奥へ奥へと
当てはない、かといってここに留まることもできない
逃げることに夢中になり、すでに自分が森のどの辺りにいるのかも分からなくなっていた

こっちで大丈夫なのだろうか・・・・?

些細な不安が胸をよぎった時、不意に木の陰から何かが飛び出し慌てて立ち止まる


青年の前に現れたのは見たこともない美しい蝶だった


赤と橙を混ぜた色をして、不思議なことに燃えているようにも見えたが、羽が触れた草木は燃えることなく変わらずそこにある
まるで青年を誘うかのように眼前で身を躍らせると、蝶は森のさらに奥地へと羽ばたいていく
『人喰いの森』に隣接する村に住んでだいぶ経つがこんな蝶を見たのは初めてのこと
もしかしたらこの森の奥にしか生息していないのかもしれない

思わず足を止めて見入っていた青年は、はっと我に返り不可思議な蝶の後を追った
行く当てがないならば気まぐれな生物(仮)について行ってみるのもいいだろう
方々に伸び空を覆い隠す枝の合間を縫ってひらひらと舞う蝶
追っ手のことなど忘れ、青年は必死に追いかけた
森の中ではあれだけ目立つ色をしているにもかかわらず、草の影に入ると姿を消し、ありえない場所から現れる
もしかしたら狐狸に化かされているのでは?
疑問に思い始めたとき、蝶が一段と高く空へと舞い上がった

「う・・・・わっ!?」

その拍子に青年は足を踏み外してしまう
長い草に隠れて分からなかったがどうやら崖だったようだ
崖の下へと真っ逆さまに落ちていく青年はゆっくりと流れる景色の中、空に溶けていく不思議な生き物をぼんやりと見送った











 
「・・・はん、あの・・・兄はん、大丈夫どすか?」

子供の声がして青年はゆっくりと目を開ける
視界には雲一つ無い夏空と燦燦と輝く太陽。どうやら崖から落ちてそのまま気絶していたらしい
落ちてくるときにぶつけたのかあちこち痛いが骨が折れた様子はない。
あまり高い崖ではなかったことと、草が生い茂っていたのが幸いしたのだろう
これがもし高い崖だったら・・・・そう思うと薄ら寒くなった

「ってぇけど・・・大丈夫だ。たぶん」
「そうどすか。よかった」

横たえていた身体をゆっくりと起こすと声をかけてくれた幼子の姿が目に入った
髪は夜空を思わせる深い紺色で、瞳は紫水晶よりももっと深い紫色
着物は暗い色のものを着ているか小綺麗な、村ではまず見かけない類の子供だ。
森を越え、どこかの村に出たのだろうか?
見ると子供の手には籠があり、中にはよく分からない野草がどっさり詰め込まれている
薬草か、はたまた食用か。青年もそれなりの知識は有していたものの、何なのかはまでは分からなかった

「兄はん上から落ちてきたんどすえ、覚えてはりますか?」
「あぁ覚えてる・・・・驚かせて悪かったな。崖だって知らなくてさ、足踏み外した・・・・オマエ名前は」
「うちは火の燕って書いて『かえん』いいます。ここは薬草がぎょうさん生えとるさかい、よぉ来るんどすけど、人が降ってきたんは初めてどした」

あどけなく笑う火燕の言葉に青年は眉間に皺を寄せた

「こんな森の奥に一人で来るのか?」
「へぇ、こん近くに住んでますさかい。」

住んでいる?当たりを見渡しても人が踏み言った形跡はないし、村に出た様子もない
ならばここはまだ人食いの森なのでは?
戦から落ち延びた侍がこっそりと隠れ住んでいる可能性もあるが、ここ最近それほど大きな戦はあっただろうか・・・
結局一つの謎が解けてもまた謎が浮かび上がってしまった

子供の正体は気になるものの、今はそんなことをしている暇はないことを青年は思い出す。
一刻も早くこの場を離れなければ。
青年は火燕に礼を言うと立ち上がろうとして・・・できなかった。外傷はなかったが足に力を入れる度に鋭い痛みが走る。
どうやら捻挫してしまったようだ

「どないしたんどすか?」
「落ちた時足やっちまったかも」
「せやったら家に寄っていかへん?家には大人もいてはりますし。怪我も悪化せんうちに診てもらった方がええ」
「・・・そう、だな。これじゃ先にも進めねーし。手を貸してくれるか?」

喜んで、と答えた火燕の肩を借り、ゆっくりと森のさらなる奥地へ青年は足を踏み入れる
浅いところまでならば食料調達のために何回か入ったことはあったが、こんな所にまで来たのは初めてだった



この時、青年は火燕に会ったことですっかり忘れていた
ここが恐ろしい妖の住む『人喰いの森』であるということを



奥へ奥へ進むこと数刻。薄暗さが一層増す中、木々が空を覆っていない明るく開けた場所に出た。
そこで真っ先に目に飛び込んできたのは赤い塊。
一瞬炎が上がっているようにも見えたそれは、よくよく目をこらしてみると先ほど見かけた朱い蝶々の群れのようだ

「なんだ、あれ・・・」

呆然と立ち尽くす青年が言葉を発すると、一カ所に集まっていた蝶が一斉に羽ばたき空へと消えてしまう

「へぇ・・・この妖気ん中でもまだ口利けるん?」

突然声がしたかと思えば先ほど蝶が集まっていた場所に誰か立っていた。群れの中心いたせいか、全く気付かなかったが。
火燕にうり二つ、だが長い前髪で隠れているのは右ではなく左目だ。
ゆっくりと近づいてくる『ソレ』は、とても楽しそうに笑う
何か言葉を口にしようとしたが、青年は身動きできずにいた。いや、目が離せなくなっていたのだ。
澄み切った声、陶磁器のような白い肌、それら全てに心を奪われてしまったかのように
こんな非常事態なのに、思い出すのは『森に入ってはいけない』なんてありがちな掟と、村に伝わる昔話

「力持っとるわけやなさそうやし・・・」

人喰いの森には妖が住んでいるから、決して入ってはいけないよ。
妖に食べられた人間は、もう戻って来られないのだから

「あんた、何者どすか」